ソロモン・イブン・ガビーロールについて考えてみる

●略歴


 ソロモン・イブン・ガビーロール(1021年/1022年-1070年(1050年?))はスペインはマラガ(当時はスペインという国はなく、小さな国々(タイファ)がひしめき合う地域であった)の生まれである。哲学者、詩人であり、新プラトン主義哲学者に分類される。また、熱心なユダヤ教徒であった。彼の父はコルドバの著名人であったが、1013年に政治危機でマラガに移住、その後ソロモン・イブン・ガビーロールは誕生した。

 彼は物質的には何ら不自由ない生活を送っていたが、幼くして両親を亡くしており、気まぐれで怒りっぽく、それもためか常に孤独であったとされる。性格故にパトロンとの関係を解消したり、ユダヤ人コミュニティからつまはじきにされたりといったこともあった。また、安定しない友人関係や強力な敵も彼を悩ませた。というのも彼の哲学は無知の者や賞賛に値しない者を鋭く批判することがあったからで、イブン・ダウドという人物は彼を「ユダヤ人を誤った方向へ導く」と批判している。尤も、ソロモン・イブン・ガビーロールも彼をのけ者にしたユダヤ人コミュニティを痛烈に批判しているが……。虚弱体質で十代のころより皮膚病(尋常性狼瘡とみられる)を患っていた。自らのことを低身長で醜いと詩に表現している。他人からの評価も同様で、詩人のモーゼ・イブ・エズラは自身の作品内で彼について「彼の気まぐれな気質は彼の知性を支配しておらず、彼自身の中にあった悪魔を抑圧することもできませんでした。彼は社会不適合者でありました」と語っている。楽観的な部分もあったようで、彼が自身の才能について自信を持っていたことも確かである。

 彼をその才能故に支援した者がいる。当時の著名な政治家、ユカティエル・イブン・ハッサン・アル・ムタワクキル・イブン・カブランがその一人である。彼に支援されるにあたり、ソロモン・イブン・ガビーロールはマラガからサラゴサに移住した。サラゴサはユダヤの文化的中心地であり、彼はそこでタルムード、文法、幾何学、天文学、哲学を学ぶ機会を得たという。しかし、ソロモン・イブン・ガビーロールが17歳のとき(1038/1039年)、政治的陰謀によってユカティエルは暗殺される。そのため彼はサラゴサを離れ、グラナダに移住せざるを得なくなった。パトロンはグラナダ王のサミュエル・イブン・ナグリラへと変わり、最初こそソロモン・イブン・ガビーロールは王を賞賛する詩を書いたが、二人の間にわだかまりが生じるや否やそれは皮肉の言葉へと変わった。

 結局彼は生涯独身であり、晩年はスペインの中を放浪し過ごしたという。その際もグラナダ王は彼を支援したとされる。30歳前後、もしくは48歳のときバレンシアにて没する。アラブの騎手に踏みにじられたとも、詩才をねたまれイスラム教徒の詩人に暗殺されたとも言われている。彼の死について、有名な伝承がある。その才能によって暗殺された彼の亡骸は無花果の木の下に埋められたとされる。その無花果があまりにも多くの甘美な実をつけることを疑問に思った人々によって木の根元は暴かれ、そして遺骨の発見と犯人の処刑がなされたという。

 また、カバラの名付け親であり、カバラの神秘・ゴーレムに関する伝説も存在する。女性型のオートマトンを作製、それを王に咎められ、王の御前でオートマトンを解体したというものだ。この伝説は、彼の孤独さから17世紀に流布したものとされる。

 アヴィケブロンはガビーロールのラテン語名である。二つの名前が同一人物のものであると判明するまで、アヴィケブロンはキリスト教徒かイスラム教徒の哲学者と信じられてきた。

●おすすめの詩


王冠(ケテルマルクト)
後悔に囚われる
証人は妨げる
そのほかの詩は こちら

●参考


ソロモン・イブン・ガビーロール フランス語版Wikipedia
ソロモン・イブン・ガビーロール ドイツ語版Wikipedia
ソロモン・イブン・ガビーロール 英語版Wikipedia
ソロモン・イブン・ガビーロール 日本語版Wikipedia
トゥデラのベンヤミン
流出説 日本語版Wikipedia
枢要徳 日本語版Wikipedia
四体液説 日本語版Wikipedia
Stanford Encyclopedia of Philosophy/Solomon Ibn Gabirol [Avicebron]
A HISTORY OF JEWISH PHILOSOHY IN THE MIDDLE AGE

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